苦しまない練習*小池龍之介【日本人会図書室で借りて読んだ本】

シンガポール

シンガポールの日本人会図書室に関しては、コチラの記事をどうぞー。

早速、小学館さんからのスクショでございます。(ためし読みがあるようなので、ご興味ある方はリンクどうぞ

スクショなのでリンク先には飛べません。

すっかり仏教という教えを、考え方をもっと知りたい!という私にはぴったりの本でした。本書の「はじめに」部分に

つまり本書は「宗教」の本でも「仏教」の本でもない。ブッダという古代の先生が残した「言行録」に耳を傾け、そこから現代を生きる私たちが習い、役立てることのできる道具を引き出そうという本なのです。あくまでもブッダの説いたことは、苦しみという名の川を渡って乗り越えるための筏(いかだ)、すなわち道具なのですから。

こんな風に書かれていますが、まさに私はこの人生で感じる「苦しみ」に気づく、気づいたときにどうするか、そういうことを仏教の教えというか考え方から様々な価値観を手に入れることができて、本当に心が軽くなることを実感している1人です。

小学館さんのページでも紹介されていますが「考えない練習」の続編なんですよね。今、そちらスタンバイしている状態です。出版された順番に読んでいないのですが、順番通りに読んでいたらもっとわかりやすいかなーとも思います。

では、小池さんの言葉を引用しながら私が心に残ったフレーズをご紹介させていただきたいと思います。まずは『不機嫌な心を静める』の章から引用

「ああ、この人もロボットか、しょうがない、なるようにしかならん」という感じ。物事はなるようにしかならない。なるようになる。訪れるべくして、訪れる。

そのことを受容して、ジタバタしなくなっていく、というのが、心が動じなくなっていくプロセスであり、心が楽なっていくプロセスでもあります。

心が楽になっていくプロセスとは、自分と他人の感情がどこまでも不自由で奴隷のようなものだという現実に気づき、そのイヤな現実に目覚めてゆく道のりです。

「選択の余地があるか」ということも書かれていたのですが

例えば、地震にあったら、地震が起きなかった可能性というのは想定しませんから、たいていの場合、諦めるしかないでしょう。ところが、同じように自分の家が潰れたにしても、誰かにショベルカーか何かで壊されたら、ものすごく腹が立つはずです。

その差は何かというと、地震の主体は自然であり、そこには選択の余地がないけれども、人がやった場合、「その人にはやらないという選択の余地もあったのではないかいかしらん」などと心のどこかで考えるので腹が立つのです。

しかしながら、実際には、その相手はそういうことをやりたくなるという衝動が湧いてきた時に、そこから逃れる術はなかったのです。

ですから、「しょうがない」と受け入れる以外にありません。腹を立てたって、自分が苦しむだけの話ですから。

あ、あぁ…「そこから逃れる術はなかった」これに尽きますな…最近、小2の息子に理不尽に怒られることが多いなぁと感じる私なのですが、息子のこれに私は苦しんでたのかもしれないな、と。そう、腹を立てたって、自分が苦しむだけ。あぁ、苦しい。

それからこちらも『不機嫌な心を静める』の章から「この瞬間を生きる」より

「さっき飲んだ一杯目のお茶が美味しゅうございましたわ」と過去に囚われるのでもなく、「美味しいな、後でもう一杯もらおうかしらん、ルンルン」と未来に走り出すのでもなく、今、目の前にあるお茶をじぃーっくりと楽しむ。

…省略…

常に「今この瞬間」に集中し、未来や過去に意識がぶれるたびに「今」に戻ること。

そうすれば、どんな時も心の平静さが回復してまいります。

なるほど…今まで、すっごい考えてた。過去、未来、すっごい考えてたーーーー!こんな風に「今この瞬間」をもっと意識したら、いろんなことに集中できそうです、小池さん。掃除も「これが終わったが休もーっと!」じゃなくて「今、掃除機かけてる」、夕方お弁当のおかず作ってる時も「これをやったら明日の朝が楽になるわー」じゃなくて「今、ハンバーグを焼いている」…そんな風に考えるようになったら、なんか充実しそうな気がしてきました。

何となくこれまで、自分が今何に苦しんでいるのか、今どんな煩悩に苦しんでいるのか、そういうことを考えることはあっても、自分の「今の行動」に関して意識を集中させたことはありませんでした。「今、この瞬間」を生きるってこういう事かーと、改めて考えてみようと思います。

いいですね、ホント本っていいですね。新しい世界や知識、考え方が広がる時間。読書、とても幸せな時間です♡

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